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「ゴッホ展」
大阪市立美術館 |
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R7年8月初旬に大阪市立美術館に出かけた
大阪市立美術館:「ゴッホ展」
1/2位が彼の作品
*人物像・・・深く・暗い・重たい・・・感じがする
*風景画・・・モンマルトルの景色は明るい色彩
*「種を蒔く農夫」・・・何度も見たものだった。 |
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まだまだ暑かったせいか、あまり頭に残る印象がなかった。
HPの内容をほぼそのまま転記する。 |
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第1章
ファン・ゴッホ家の コレクションから
ファン・ゴッホ美術館へ
本展でご紹介するファン・ゴッホ家のコレクションの歴史は、フィンセント・ファン・ゴッホの死後、
その作品の大半を弟テオが受け継いだところから始まります。
本章では、コレクションを継承し、フィンセントの作品を世界へ広めることに貢献した3人の家族をご紹介します。 |
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* 1889年
4月、テオとヨーが結婚する
*1890年
7月29日、フィンセントがテオに看取られ37歳で死去
*1891年
1月25日、テオが33歳で死去
フィンセントとテオのコレクションはヨーと息子フィンセント・ウィレムが相続し、
ともにオランダへ渡る
*1905年
没後最大の回顧展がアムステルダムで開催される
*1914年
ヨー、テオに宛てたフィンセントの書簡集を出版
テオの墓がフィンセントの眠るオーヴェール=シュル=オワーズに移される
*1924年
ヨー、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに《ヒマワリ》を売却
*1925年
ヨー死去。フィンセント・ウィレムがすべてのコレクションを相続
数年後、フィンセント・ウィレムが作品の販売をやめる
*1960年
フィンセント・ファン・ゴッホ財団設立
*1962年
大部分のコレクションが財団に移される
*1973年
国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館開館
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* テオドルス・ファン・ゴッホ
愛称テオ、1857-1891
フィンセントの弟。
画家になると決意した兄を経済的・精神的に支え続けた。1873年、
15歳で伯父の紹介により美術商グーピル商会のブリュッセル支店で働き始め、
ハーグ、ロンドン勤務を経て、1879年にパリへ移る。印象派をはじめとする前衛的な美術にも高い関心をもち、フィンセントの芸術観にも影響を与えた。支援に対して兄からはその成果が送られ、彼のアパルトマンはフィンセントの作品で溢れかえっていたという。フィンセントの死後、
回顧展の開催に奔走するもしだいに体調が悪化し、兄の半年後に死去。
テオの遺産には、数多くのファン・ゴッホ作品に加え、兄弟で収集したほかの画家の作品や
浮世絵、フィンセントからの多数の手紙が含まれていた。 |
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*ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル
愛称ヨー、1862-1925
フィンセントの義妹。
オランダの中流家庭に生まれる。オランダで英語教師や翻訳家として働いた後、
兄の友人だったテオのプロポーズを受けて1889年4月に結婚。パリで新婚生活を送りながら、
美術への造詣を深めた。1891年1月のテオの死により帰国。テオの財産の半分を相続し、
このとき1歳に満たなかった息子が21歳になる1911年まで、彼の相続分も管理していた。
展覧会への貸出に加え、定期的に作品を売却したが、親子の生計のためだけでなく、
フィンセントの評価の確立を目的としたものでもあった。テオへ宛てられた膨大な手紙を整理し1914年に出版。死去する前年1924年には、ロンドンのナショナル・ギャラリーのために《ヒマワリ》を手放し、フィンセントの名声を確固たるものとした。
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*フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ
愛称エンジニア、1890-1978
テオとヨーの息子でフィンセントの甥。
フィンセントは彼の誕生を祝って《花咲くアーモンドの枝》を描いて贈った。
フィンセントの作品に囲まれて育ち、エンジニアの職に就いた。
ファン・ゴッホ家のコレクションに深く関わるようになるのは1945年以降のことである。
ヨーの死後数年経つと作品販売を止め、一家のコレクションが散逸せず保持されるよう尽力した。1960年にフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立し、1962年にコレクションの大部分の所有権を
財団に移譲した。財団は、美術館に膨大なコレクションを永久貸与することを約束し、
アムステルダム市から土地の提供を受け、オランダ政府が美術館を建設。
1973年に国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)を開館させた。 |
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第2章
フィンセントとテオ、
ファン・ゴッホ兄弟のコレクション
兄弟のコレクションは、ふたりが生きた時代の雰囲気を伝えてくれるとともに、フィンセントの芸術を理解する大きな手がかりとなります。フィンセントとテオはともに十代半ばから
画廊で働き始めていて、手頃な価格のグラフィック・アートは若いころから身近なものでした。
彼らは版画(オリジナル、複製含む)を買い、ときに贈り合います。画家になる決意をした
フィンセントは、特にフランスやイギリスの雑誌に掲載された挿絵から大きな影響を受けました。
パリでは同時代の美術も収集します。フィンセントが自らの作品と交換で手に入れた作品は、
このとき彼が画家仲間から得ていた評価を示すものでもあります。
浮世絵を熱心に購入したのは主にフィンセントで、芸術的な刺激を受けるだけでなく、すでに値が上がっていた
印象派の主要画家の作品を、これらと交換で何とか手に入れようと意図したものでもありました。 |
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★1:
ジョン・ピーター・ラッセル
《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》
1886年8-9月 油彩、カンヴァス
肩越しにこちらを見る画家を描いた、フィンセントお気に入りの肖像画。
サン=レミの療養院からテオに送った手紙では、
「ラッセルが描いた僕の肖像を大切に扱ってほしい。僕にとってとても重要なものだ」と頼んでいる。本作の代わりにラッセルに贈られたのは、パリで描いた3足の靴の静物画だと考えられている。
ラッセルはオーストラリア出身の画家で、ファン・ゴッホはパリで彼と出会い親しくなり、
南仏に移ったあとも交流が続いていた。 |
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★7:
ポール・ゴーガン
《雪のパリ》
1894年 油彩、カンヴァス
1893年、2年間のタヒチ滞在から戻ったゴーガンが、
パリでアトリエの窓から見える雪景色を描いた作品。
陽が差し込み、雪化粧した都会の一角が生き生きと美しく描かれている。
本作は兄弟のコレクションではなくヨーに由来する。ゴーガンは南仏アルルでファン・ゴッホと2ヵ月を過ごした。彼は自らの所有であるファン・ゴッホ作品3点について、
オランダのヨーに連絡をとって返却を受けた。
本作はその感謝の印としてヨーに贈られた作品のひとつとされる。 |
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★8:
エルネスト・クォスト
《タチアオイの咲く庭》
1886-90年 油彩、板
見事に咲く、生命力に溢れるタチアオイが主役の作品。
フィンセントはクォストの描くタチアオイを高く評価し、南仏で制作している際には、
そのように自分もヒマワリを描きたいと考えていた。オーヴェール滞在中の手紙からは、
クォストに会いにパリに行き、彼の作品を手に入れようとしていたことがわかっている。
本作の裏面には「テオ・ファン・ゴッホへ/私の友人フィンセントがこのうえなく愛するこの絵を」
と記されている。 |
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★19:
三代歌川豊国(歌川国貞)
《花源氏夜の俤》
1861年(文久元) 大判錦絵三枚続
ファン・ゴッホは、新しい表現様式を確立する際に日本美術を参照し、
またその思想からも大きな影響を受けた。アルルでは浮世絵をアトリエに飾り、
テオに次のように書き送った。
「考えてみてほしい。あの日本人たちが僕たちに教えてくれることは、
まるで新しい宗教のように思えないだろうか。あれほど質素に自然の中で暮らしている。
まるで彼ら自身が野に咲く花のようではないか。僕には、日本美術を学びさえすれば、
あのようにもっと幸福で陽気な気分になるはずだと思えるし、
それによって教育や慣習に縛られている僕たちでも自然に立ち返ることができるのだ」。 |
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第3章
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画と素描
フィンセント・ファン・ゴッホが画家になる決意をしたのは比較的遅く、1880年、27歳のときでした。
最初の3年間は主にハーグで素描の腕を磨き、その後ニューネンで油彩画に取り組みます。
1886年にパリに出ると、自らの表現が時代遅れであることに気づき、新しい筆づかいと色彩表現を取り入れ、独自の様式を生み出していきました。1888年2月に南仏に移り、アルルで1年3ヵ月、
サン=レミ=ド=プロヴァンスで1年を過ごし、自らの表現様式を確立しました。
1890年5月にパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズへ移ります。
新しい芸術の可能性を試み続けていましたが、自らの胸部をピストルで撃ち、
7月29日に37歳で息を引き取ります。
わずか10年という短い画業で驚くほどの数の作品を制作しました。
ファン・ゴッホ家が受け継いできた200点を超える絵画、500点以上の素描・版画は、
現在ファン・ゴッホ美術館に保管され、世界最大のファン・ゴッホ・コレクションとなっています。
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オランダ
1853年:オランダ南部のフロート・ズンデルトに生まれる
1869年:グーピル商会ハーグ支店で働き始める(76年解雇)
1872年:現存するテオ宛ての最初の手紙が書かれる
1880年:画家となる決意をし、ブリュッセルで美術の勉強を始める
1881年:4月末、家族の住むエッテンに移る
12月末、父親と口論になりハーグに移り住む
1883年:ニューネンに移った両親のもとで暮らし始める |
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★24;
フィンセント・ファン・ゴッホ
《女性の顔》
《ルナリアを生けた花瓶》
いずれもファン・ゴッホ美術館、アムステルダム?(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
+++++++++++++++++++++++++++
1885年4月 油彩、カンヴァス
画業の初め、ファン・ゴッホは農民を描く画家になることを目指し、何十点もの習作を重ねた。
これらはオランダ時代の代表作《ジャガイモを食べる人々》に結実するが、
本作もそのひとつである。この頃、ファン・ゴッホは本から学んだ色彩理論を
さまざまなかたちで実践していた。本作においても補色の効果が試みられている。
色調が暗いためわかりにくいが、顔や帽子の赤みがかった色調が、
衣服など随所に見られる緑とコントラストを生み出すよう配されている。
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★23:
フィンセント・ファン・ゴッホ
《ルナリアを生けた花瓶》
1884年秋-冬 油彩、カンヴァス
色彩理論への関心を高めたファン・ゴッホは、色彩を扱う訓練に適していると、
それまで積極的に描いてこなかった静物画も手掛けるようになる。
1884年の晩秋から初冬にかけて植物の静物画を初めて制作した。
本作では、ルナリアと紅葉した数種の葉が組み合わされている。
ルナリアは花ではなく、秋になると見られる銀白のさやをつけた様子が描かれている。
硬貨のような独特の外観をもつこの植物を、ファン・ゴッホは憂鬱と告別に関連づけていた。 |
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★41:
フィンセント・ファン・ゴッホ
「種まく人」
1888年11月、アルル 油彩、カンヴァス
ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム
(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
Vincent van Gogh The Sower Arles, November 1888 Oil on canvas Van Gogh Museum, Amsterdam
(Vincent van Gogh Foundation)
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第4章
ヨー・ファン・ゴッホ= ボンゲルが売却した絵画
ヨーはテオと結婚する前には特に美術に縁があったわけではありませんでしたが、
パリでテオと暮らしながら、しだいにファン・ゴッホをはじめとする近現代美術に関する
知識を身につけました。テオから膨大な作品を受け継いだのちには、
個人収集家や美術館の世界、美術取引の仕組みについても精通してゆきます。
ヨーが定期的に作品を売却したのは、親子が生計を立てるためでもありましたが、
フィンセント・ファン・ゴッホの評価を確立するという大きな目的のためでもありました。
こうしたヨーの尽力を明らかにするのが、テオとヨーの会計簿です。
テオの死後には作品の売却についても記されるようになり、
ヨーがどの作品をいつ誰にいくらで売却したのか、生々しい記録が残されました。
会計簿の調査・研究は進み、記載されたもののうち、170点以上の絵画と
44点の紙作品が特定されています。 |
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★51:
『テオ・ファン・ゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿』
1889-1925年
ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
当初は夫婦の家計簿で、1889年に新婚のテオとヨーが使い始めた。
食料品の購入や洗濯女への支払いなど日々の支出に加え、
テオから兄フィンセントへの毎月の送金額や画材の購入についても記録されている。
テオの死後、会計簿はヨーが引き継ぎ使い続けた。
ヨーがファン・ゴッホ作品の売却を細かく記録したことで、
ファン・ゴッホ研究にとっても極めて貴重な資料となった。 |
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★54:
フィンセント・ファン・ゴッホ
《モンマルトルの菜園》
1887年 油彩、カンヴァス
アムステルダム市立美術館
Collection Stedelijk Museum Amsterdam, gift of the Association for the Formation of a Public Collection of Contemporary Art in Amsterdam (VVHK), 1949
現在はアムステルダム市立美術館に収蔵される作品。アムステルダム市立美術館では、
1905年に470点以上の作品によるファン・ゴッホの個展が開催されており、
この大規模な回顧展は画家の評価を確立する大きな礎となった。
本作はパリで描かれた作品のひとつで、まだ田舎の趣がのこる
モンマルトルの穏やかな風景が捉えられている。
ヨーが記した会計簿には、1914年4月6日、12,000ギルダーで売却されたことが記録されている。
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第5章
コレクションの充実?作品収集
1973年、ファン・ゴッホ美術館は主にフィンセント・ファン・ゴッホ財団のコレクションを展示する
美術館として開館しました。ファン・ゴッホ作品と家族に受け継がれてきた
ほかの画家たちの作品を中心としながら、
今日までにそのコレクションは少しずつ拡充されてきました。
1980年代後半から1990年代前半にかけては、寄付や寄贈の恩恵を大いに受け、
ときにはファン・ゴッホ作品が加わることもありました。
この時期に潤沢とはいえない予算を使って購入されたのは、
ファン・ゴッホと関連のあるバルビゾン派やハーグ派、象徴主義の作品です。
また、1990年代の終わり頃からは版画やポスターなどの紙作品の収集にも力を入れます。
このコレクションはいまや世界屈指の質を誇るものとなりました。
さらに収益が美術館にも分配される宝くじができると、これまで購入が難しかった作品が
購入できるようになり、印象派やポスト印象派の作品をはじめ重要な作品が加わりました。 |
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★57:
フィンセント・ファン・ゴッホ
「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」
1882年9月23日頃 ペン、インク、紙
ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
ファン・ラッパルトは、ファン・ゴッホがブリュッセルで出会った先輩画家で、
ふたりは手紙で自らの制作や雑誌に掲載された挿絵など、美術の話題を語り合った。
この手紙でファン・ゴッホは、救貧院の男を描くことに忙しいと述べ、そのスケッチを付している。
本展で展示するファン・ラッパルト宛ての4通の手紙は長らく所在不明で、
2006年に個人コレクションで発見された。ファン・ゴッホの手紙には
質の悪い紙が使われていることが多く、また色褪せしやすいインクで書かれているため、
実物が展示されることはめったになく、今回の出品は極めて貴重な機会となる。 |
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★73:
ポール・シニャック
《フェリシテ号の浮桟橋、アニエール(作品143)》
1886年 油彩、カンヴァス
ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム
シニャックは新印象派を代表する画家で、ファン・ゴッホとはパリの
タンギーの画材店で出会ったという。ふたりはよくパリ近郊のセーヌ川沿いの町に出かけ、
ともに制作をした。シニャックの影響を受け、この時期ファン・ゴッホも短い筆触を多用している。
本作に見られるように、シニャックは厳格に均一な筆触を用いたわけではない。
左側の船の帆や空などは細かいが前景の川はやや大きく、
こうした違いが画面に奥行きをもたらしている。
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